誕生日の涙

先日10月27日は私の29歳の誕生日でした。

 

たくさんの方から愛あるメッセージをいただき

今も感謝と感動に満たされています。

 

改めてありがとうございました。

 

実は去年まで誕生日というのが苦手で

お祝いの素敵な席にあっても

複雑な感情が込み上げてどうしても

溢れる涙が止められない時もありました。

 

嬉し泣きならまだしも

悲しくて本気で泣いているので

お祝いする側も困惑して泣いちゃう。

 

なぜ、そんなことになってしまっていたのか。

 

それは私の中にあった根深いイメージに原因がありました。

 

私にとっての誕生会は

「祝いたい人が勝手にやっている」

「当事者(私)は不在」

という思いが伴うものでした。

 

そんな気持ちでいるものですから

小さい時に家族に祝ってもらった席でも

嬉しくない。仏頂面。

ケーキが出てきても不機嫌。

 

その後、姉にどう思ったか聞く機会があり

「もっと嬉しそうにしろよと思った」

という言葉を記憶しています。

 

そして私は

「やっぱり主役(私)の状態がどうかではないんだ」

と思い「誕生会=形だけ」という

悲しいイメージを持つことになります。

 

しかしこの奥に潜む

感情のキャッチフレーズが

小さかった私の叫びであり

誕生日が嬉しくない本当の原因でした。

 

それは「(母に対する)産んでくれるなよ!」という言葉。

(こうして見ると大変ショッキングですね。。)

 

細かくは書きませんが

「生きるのは辛いし苦しいし悲しいし」

「希望なんてない」

「夢なんてない」

「幸せという概念がわからない」

そんな生きることに対する全否定。

 

しかし、生きるしかない。

 

その葛藤の狭間で

「何に対して怒ればいいのかわからない」

「どこにぶつければいいのかわからない」

そんなやり場のない気持ちを

母に対してぶつけていたのだと思います。

 

それぐらい「生まれてきたくなかった」

という現実や人間社会に対する絶望と諦め

不信だらけの人間だったんだと思います。

 

それが今年の誕生日を迎えていく中で

「受け取る」ということの感覚をつかみ始めます。

 

昨年は号泣しましたが、

今年は逆に涙しながらお祝いの言葉をくれる人もありました。

 

「受け取る」ということを意識的に落とし込んでいく中で

「しっかり心を返そう」とも思うようになりました。

 

今もたくさんのメッセージ一つひとつに

お返事している最中です。

 

「受け取る」ことができるようになる中で

たくさんの気づきや変化がありましたが、

それの続きは次回にしようと思います。

 

これから、お返事をするためです。

 

なので今日はいったんここまでにします。

本日も最後まで読んでくださりありがとうございました。